映画 シェイプ・オブ・ウォーターを見てきました。ざっくりのあらすじと感想を書いておきます。安心して見れる娯楽作品である一方で、見終わった後に深く考えさせられる映画でした。
映画 シェイプ・オブ・ウォーター ざっくりあらすじ
(C)2017 Twentieth Century Fox
反復と差異
舞台は1962年の冷戦下アメリカ。主人公のイライザは孤児として育った孤独な女性。赤ん坊のころに首筋を傷つけられたせいで話すことができない。彼女は「航空宇宙研究センター」で掃除婦として働いている。朝起きて、卵をゆでて、バスで職場に向かって仕事が終わったら帰って眠る。
数少ない友人の優しさに支えられているけど、自分を愛してくれる人がいない悲しみを抱えたまま、彼女は同じ朝、同じ毎日を繰り返す。
ある日、宇宙研究センターに「宇宙センター史上もっともデリケートなもの」が搬入される。「それ」の責任者は軍人ストリックランド。鼻持ちならないエリート意識を隠そうともせず、掃除婦のイライザとゼルダに無礼な態度をとる。
遭遇
イライザとゼルダは急に呼び出され、「それ」が存在する部屋の掃除を命じられる。部屋の床は血にまみれ、人間の指が2本転がっていた。
血を見るのが苦手なゼルダが別のエリアを掃除している間、イライザは「それ」が入っている水槽に近づき、その姿を初めて見る。「それ」は人間の形に似てはいるが、全身をウロコで覆われた半魚人だった。
床に転がっていた指は軍人ストリックランドのものだった。「それ」を虐待しているうちに指を食いちぎられたのだ。イライザはゆで卵を持って行って「それ」に食べさせ、手話を教える。
半魚人は言語と感情を理解することができた。二人は少しずつ意思を通わせていく。その様子をホフステトラー博士が隠れて観察していた。
冷戦
実はホフステトラー博士はロシアのスパイだった。有人宇宙飛行においてアメリカを出し抜くべく、半魚人の生態を知ろうとしていた。一方で軍人ストリックランドの上司ホイト将軍は、半魚人の生体解剖を命令する。
ホフステトラー博士がロシア側に生体解剖について報告すると、半魚人の秘密がアメリカ側に渡らないよう、解剖前に殺すことを命令される。ホフステトラー博士には、爆弾と毒薬の注射が渡された。
脱出
イライザも生体解剖について知り、その前に半魚人を逃がすことを決意する。隣人ジャイルズに「彼はわたしを不完全な存在として見ない。ありのままのわたしを見てくれる。彼を助けないなら、わたしたちは人間じゃない」と懇願して協力を頼む。
同僚ゼルダとホフステトラー博士の力を借りながら、イライザと半魚人は脱出に成功する。イライザと半魚人は2人の愛を確かめ合い、幸せに包まれる。
しかし、日がたつにつれ半魚人は次第に衰弱していく。海の中でしか生きられないカラダなのだ。イライザは雨が降って水位が上がったら、半魚人を海に帰すことを考える。
魚と女と水の中
軍人ストリックランドは激怒して半魚人を探し始める。ホフステトラー博士を拷問し、ゼルダとイライザが関わっていることを突き止める。イライザのアパートに押し入り、彼女が残したメモから、半魚人を海に戻そうとしていることを知る。
イライザとジャイルズが半魚人を海に帰そうとしているところに、ストリックランドが現れ、銃で3人を撃つ。イライザを抱いて半魚人は海に飛び込む。
海の中でイライザの首の傷が開く。まるで魚のエラのように。イライザは微笑んで半魚人と抱き合う。
映画 シェイプ・オブ・ウォーターの感想
表面的にはソツが無い映画
映画 シェイプ・オブ・ウォーターは作品賞・監督賞などアカデミー賞を4つ獲得しました。ホラー映画と恋愛映画の要素がうまくミックスされ、そこに少し皮肉な性描写と暴力描写がスパイスのように散りばめられている。ソツがなく、よくできた映画だと思います。おとぎ話として安心して見れます。
マジョリティとマイノリティ
軍人ステグリッツはマジョリティ、半魚人はマイノリティを抽象化したキャラクターであることは明白です。
軍人ステグリッツは日の当たるメインストリームを歩く、社会的に認められた白人男性。絵に描いたような幸せなアメリカ人の成功者の生活を満喫している。
半魚人とイライザは「声」を奪われた存在で、彼らを助ける同僚のゼルダは黒人、隣人のジャイルズはゲイと社会の片隅で生きる存在です。
暗澹たるハッピーエンド
愛し合う二人が抱き合うラストはハッピーエンドですよね。でもわたしはこの映画のラストで、どうにも暗澹たる気分になってしまいました。理由はいくつかあります。
まず、マジョリティとマイノリティの対立構造を描くために、半魚人というファンタジーを採用しなければ、社会に受け入れられる物語として成立しないという事実です。
2つ目の理由は、おとぎ話の中でさえも、マイノリティの半魚人とイライザは、海の中で魚として生きていくしかなかった。つまり、マイノリティはマジョリティと隔離された環境で、「別の生き物」として生きていくしかない。
ねえ、ミスターギレルモ。なかなか暗澹たるハッピーエンドじゃない?どうしてこの映画の結末は「みんなで仲良く暮らしましたとさ、めでたしめでたし」ってならないの?おとぎ話でしょ?
そんな結末は、おとぎ話でも一般受けしないということを、ギレルモ監督は良く理解しているのでしょう。
でもなぁ。現実的なマジョリティとマイノリティの対立ではなくファンタジーという形式を選んだなら、「共生の物語」になる別の結末が見たかった。物語には世の中を変える力があるから。
この映画を見終ってから「まだあり得ない共生の物語」について、わたしはずっと考え続けているのでした。